昭和42年11月28日 朝の御理解
大きなおかげを頂かなければいけない。大きな信心をさせてもらわなければいけません。大きなおかげを頂く為には大きな信心を、いうなら、スケールの大きな信心。昨日、夜の御祈念に福岡の高橋さんがお参りになった。丁度その前日が福岡の博多教会のご新築になってその落成の報告祭、大祭が合わせてあるという(?)、お参りになられて、そしてどういうような、全然あそこは小倉関係ではございません、(?)。いわば手続きが違う教会です。この田主丸教会の親教会になります、やがて、72年にもなります教会で、教団の中でも大変、財の面で非常に、ゆっくりしておられる教会として有名でした。そちらで、3千二百万総工費、3千2百万の本当にモダンな教会が出来た。そこへ、他所のことをどうこう言うのはおかしいですけれども、何ていうてもですね、いわゆるスケールが小さいという、これはまあ、何処の教会にお参りさせて頂いても、それは実を言うたら私も含めてですけれども、小さいなあ、スケールが小さいなあ、金光大神の教えを頂いて、天地の親神様のおかげを頂き、その天地の親神様のおかげを頂く、しかもその無尽蔵に限りなく頂けれる道というか、そういう教えを私達としては、とてもとてもそんな事ではこんなことはでは神様に対して相済まん。本当に願いは神様の願いに通う、神様の願いに通じる願いをたてさせていただいて、その願いは的確に頂けれるおかげを頂いていけばこんなこっちゃない。
まあ私共その、私が言うたり思うたりしておる事を皆が聞いたら、まあ、ある意味合いでは、古代妄想卿だというて笑うかもしれないというて言う事をいいながら、だんだんこちらでおかげを頂いてきた。
はあ、見事なお広前が出来た。(?)これだけ広かればと、私としては一つも広いとは思わない。はあーまだ、久大線の通っておる、(?)何の支障もない、向こうあけっぱなしのようなところがあるのですから、まだこれから、まだなんぼでも言うなら出来ますよね。
保育園も出来るだろう。(?)病院も出来るだろう。まだまだ、少年少女育成会館という本当に限りがないのです。ただただ、大きいおかげを頂きたい頂きたいという、そのおかげが頂けれるためには、どういう信心をさせていただいたらよいだろうかというところに何時も焦点をおき、何時もそこの所をが問題なのだ。
ね、ゆうべ、(?)先生のお説教がありましたが全然久留米関係違いますから、全然見知らぬ先生ばっかりだった。島原の教会の先生というかたで、もう七十、大変御年寄りの先生だった。
もうその先生がだいたいこんなお話をされたというて話されましたなかにですね、お亡くなりになられました、三代金光様、三代金光様がお若い時に九州にお見えになったことがあります。その時に本部のほうから、島原教会が出来てまもない頃ですから、島原から長崎方面へご旅行になるから、島原教会で自動車を三台用意するようにという電報がきた。当時のことですから、自動車というてもどこにもないという時代。
その時にその先生が思われた。困ったこっちゃあるなあと思われた。お金もないのにそれでもやはり金光様においで頂くのですから、その準備をしなければならんが、困ったこっちゃなあと思いよったところが、翌日また電報がきた。島原行き取りやめという電報だった。その時に先生がしもたと思われた。
ここに、私が今日おかげを頂いてきたもとがあったというてお話されたそうです。ねその時にはあー良かった、お繰り合わせを頂いた、神様ないことをご承知じゃったという頂き方だったら、おかげを受けていないと言う事なのです。
ね、わざわざ金光様がいうならお徳を下さろうとして、そういうような働きかけをこれは島原教会でなからな出来ない御用を、教えてくださったのに、自分のところがまだ貧困であるというその、為に、はあーこれは困った事だ難儀な事であるとこう思うた、思うたら神様はそれをまるっきり見とおしのようにですね、その翌日には島原行きを見合わせたという電報が来たとこういう。皆さんならどうでしょうか。ね。矢継ぎばやに御用を言われる。一回二回はありがたいと思いよったけれども三回目には本当にもうこげん御用を続けなんならと、これではね、おかげの、今日私が言う所の限りないおかげに繋がって行かないのですよ。ね。
限りないおかげを下さろうとしておるのですから、ね、そこでその、島原の先生神様にその事を
本当に私が不浄を犯しました、神様におすがりをしてどうぞ、金光様をお迎えできるようなお繰り合わせを下さいと何故願わなかっただろうかと、どうぞおかげを頂かせて下さい、あいすまんことでしたというて、お詫びをさせてもらいよったら、それからまもなく、また電報が来た。やはり一番始めのように、島原そして、長崎駅を、計画通りにするからまた直ぐ手配をせよという電報であった。その時には、それこそ、(?)受けたとこう言われるのです。
おかげを頂いた。それは無理散大をしたけれども、おかげを頂いた。金光様がお出でになられてから長崎までお供をされた。長崎に参られましたところが、長崎の教会の大きな教会が沢山ありますよね。あちら方面は。その中から教会のほうで、大きな一流の料亭に早速金光様をご案内申し上げてあちらの教師と主だった信者で宴会がその、歓迎の宴が(?)その時には私もお供をしていっておるから、あの、私も一緒にその、宴会に参加させて頂く事が出来て、大変、面目を施したという意味のお話をなさったという事でございます。
ね、だからおかげを頂いていくという事はね、そういう例えば受け方が、事に、(?)その時々の心の状態おかげというものがです、ね、これは、まだ、20年も前の話ですけれども、私は神様から矢継ぎばやお知らせを頂く。もうそれも非常に、神愛会が発会して一年に、一年祭を仕えた時に記念に、発刊になっております、御理解集というのがございますね。あの御理解集にはいうなら、そのころの御理解がいっぱい収録してあるのです。
もう本当に私としてはたまがるような本当に素晴らしい御教えであろうかという教えを沢山頂いておるんです。しかも、矢継ぎばやに頂くのです。それが随分尾粗末になっておる。ある時なんか、福岡から久留米に参ってくる電車の中でも矢継ぎばやに頂くのですよね。だから、書きとめておく事も出来ないくらいにやつぎばやに頂くのです。
それがもう本当に御理解御教え。したら神様からね、こうやって(?)おるけれどもお前はだれにも与えるものがない。私の周囲に信心を求めて沢山の人が集まってくれば、それでどんどん与えることが出来るけれども、まだ、お前の周囲にはお前の信心に帰依をした人達が少ない。福岡の秋永先生あたりがついてきておった時代ですね。だから丁度その炎天にですね、炎天にいわばアスファルトの上にですね、あの、キャンデイなんかをおいておるようなものだと。もうもったいない話だった。溶けてしまいよる。
のどが乾きよる人が沢山あるが、それに、一本づつでも与えたらどんなに皆が喜ぶじゃろうかと神様が言うて下さっておるようなことがあったくらいにです、矢継ぎばやに頂いたのですよ。いわゆる、お粗末なくらいに沢山頂いたのですよ。
そういう事を私がある先生に話した所がですね、その先生が言われる事が私だん、もう金光様の先生になって何10年になる。神様からお知らせを頂いたという事はもう、本当に何回かしかない。
しかも何10年も修行させて頂いてそれである。あんただんが修行も出来ずにそげな事頂くはずがないじゃないの。というて私に言われたことがあったのですよ。私はその時に思うたのですよ。ね。70年間でも何遍かでも神様から頂くという事だけは事実なんだ。それが何時も頂いておって不思議じゃないじゃないかと。問題は頂くこっちが、間違いさえなければ何時でも頂けれるぞと、神の声を聞き通しに聞けるのだと。私はそうやって説明をしたのですけれども、あんた達間違っておるというような言い方でしたけれどもね。
問題はですね例えていうならですね、先ほど島原の先生のそんな話をさせて頂きましたが、その先生の素晴らしいところを皆さんが頂かれたけれども、今日の私が言おうとしておるところは、そこじゃないのです。そういうような例えばおかげがです、金光様から例えばお徳を頂かせてやろうという働きがいくらでもあっておるということなんです。
(?)その時だけではないという事なのである。何10年前のあの時にあんなおかげを頂いたが、ね、ちょっと私が言い忘れましたけれども長崎の、往復してから帰って見えられた。帰って見えられましたら、私がその時使った旅費以上のおかげを頂かれたという事でありますね。
島原の先生。だからそういうようなおかげがです、その日だけ頂けれるのではない。いつもおかげを頂けれるのだという事なんです。ね。私が今神様から、ある先生が何10年かかりで何遍ぐらいしか、神様のお知らせを頂いた事がないといわれるがです、私はその時にはひーっとひっきりなしに頂いておった。そげな事は間違い、間違いじゃないて。頂けないほうが不思議なんだ。
こちらにキャッチするその例えば機会があるとするならばです、その機会に故障があるからその、キャッチできないだけの事、頂けないだけのこと。こちらの機会がです、ね、まともに(?)動いておりさえすれば、いつでも神様のお知らせを頂く事が出来れば、お伺いも出来ると言う事なんです。 ね。こちらのそういうような本当にありがたい。こういう生き方をさせて頂けばこういうおかげが受けられるというのがその時だけではない、年に何回かということだけではない、いつも日日、そういう間違いのないおかげを頂く事が出来るというのが、お道の信心だと言う事。
ね。そこで、問題はそこにおかなきゃいけんのです。頂けんはずはないのに、頂けんのはどういうわけか。そこに問題がある。神様のお知らせだって、おかげだ。ね。あれがあげんいうたけん、(?)あれがあげんするけんおかげを受けられんのじゃろうと言う事ではない。問題は自分の心の中にあるのだと。自分の心、いわば機械がどこか狂いがあるのだと、どうしてこの時計はとまっておるのだろうか、どうして、この時計はこんなに進むのだろうかと、どうして、この時計はこげん動きよるじゃろうかと、言うておるようなもんですよね。
正確にキチット間違いがないように、動きが出来れる、ここの例えば(?)一秒間だって狂いがない。毎日毎日、知らせますあの時計に自分でぴちぴちと合わせていくわけなんです。おうていくわけなんです。(?)時計ではないなんとかという時計ですよね。中にはラジオが入っておる。だから、ラジオでいつもあっていくわけなんです。ね。天地の親神様という、一つの電気に私共繋がっておって、それでも生身凡夫のことでございますから、どこにお粗末御無礼があるかわかりません。
けれども、日々をきちっと合わせて行けれる、いうならば術というものを心得させて頂いて、何気のないあり方、いわゆる時計が(?)間違いないようにさせていく正確な時計のようにです、おかげの受けられんはずがない。これがもしです、遅れたり止まっておったりするならばです、どうしてじゃろうかどうしてじゃろうかという事だけに、問題をせずにです、ね、中をひっくりかえして、中を見る、私は気持ちが必要だと言う事。成る程、このネジが緩んでおったんだ、成る程これでは、(?)油が切れておったんだ。そうでしょうが。ね、それを自分の心の上に頂いていかなければいかん。 ね。そこに私は間違いのないおかげ。しかも無尽蔵に限りなく、ね、そして、願う焦点がです、ね、私共の知恵とか力とかいうような小さい、知恵力の中から頂こうとするおかげではなくて、限りない神様の願いがどうぞ私の上に現れ成就していくような、おかげを願う所の信心。そこを焦点に置くところの信心。
もうこれだけ頂けば私は(?)事は言いません。ここさえ、いっちょもらえればといったような、小さなです、信心をです私はスケールが小さいとこういう。ある先生が言われた。私が一生一代のうちに、ご神前だけは檜の香りのぷんぷんするようなご神前を立てさせて頂きたい。私はこれが一生一代の願いである。
もうなんという小さい事をいわれる先生だろうかと思うた事があった。私はそげな事一遍も思うたことがないです。椛目時代から、お広前を建立しよとか、ね、檜作りのお広前を建立しようなど、本当に思うたことがなかった。ね。それでもおかげを下さるのはどういうわけか。とても広大な、勿論広大なおかげです、信心も出来ずに頂くのですから、けれども、これで私は済んだと思うのではなくてです、ね、これが神様が私に下さる精一杯のおかげだとは一つも思うていないです。本当ですよ。 とてもとても、私の(?)皆さんでっちゃビックリなさることを私は願いとしておるのではない。そういうおかげを受けられる神様だと言う事を確信しておる。ですからそこんところに停滞があったりどうもおかしかったり、(?)する時にはです、ね、結局私自身深く深く広く広く自分というものを反省させてもらい自分というものをとっちめていくいよいよ改まりに磨く事に焦点を置いていく以外にないのだという事なんだ。
問題はそこなんだ。ね。皆さんおかげを頂かせてもらってね、今、島原の先生がお話になったその事も何ともいえんほどに味わいのあるお話ですね。けれどもそういうおかげがですね、私今日言おうとしておるのは、何10年前に頂いたというものではなくてです、何時も頂けれるのだと言う事なんです。だから大きくなれるのです。
何年も何年もこげな、(?)というならです、何時も頂かなければならないのだけれども、頂けないところにこっちの信心に間違いがあるのだ狂いがあるのだと言う事をです、問題としていかなければならないと思うのです。ね、皆さんの願い、皆さんの信心がですどの程度のことを願いとしておるだろうかと。それかというてその、夢のようなことばっかりして、(?)それは勿論いけませんよね。中身も段々充実していくに従ってです、その願いというものがこれは自分の願いではない神様の願いであるというような願いを一つ焦点にです、お互いが信心の稽古をさせて頂いて、おかげを頂いて行くと言う事が私は限りないおかげが頂けれるという、いわゆるおかげの焦点をそこにある。いわゆるスケールが大きいというならそういう信心をスケールが大きいという信心ではなかろうかと。お互いの信心にはあまりにも受け物が小さい。
スケールが小さい。そしておかげだけは沢山欲しい。ね。一合ビンを持って行って一升下さいといったって、もう頂けれるはずがないでしょうが。
ね、一升欲しいならやっぱり一升ビンをもっていかなければいけんのです。ここんとところを皆さんが合点してです、どういう信心にいよいよ進ませて頂く、ならどういう信心をさせて頂いたらという事をいつも思わなければならないですね。
どうぞ